いつかの誰かといつかの私への、今の私の持論の話

最後に投稿したのがいつなのか思い出せないほど久しぶりの投稿です。お元気ですか。

誰が読んでいるのかわからない、誰が読んでいてもおかしくない場所で文章を書くことは、ちょっぴり愉悦でありながらちょっぴりストレスでもあります。

 


 

大学に入学してから、中学高校時代とは比べ物にならないほど、たくさんの人の価値観に触れることが多くなりました。特にここ一年くらいはバイトの影響とかもあり、そういう機会が急激に増えた気がします。誰かの今まで見えなかった部分を垣間見たりするようにもなりました。そんな中で最近特に感じることが増えたことを、今の私の考え方の記録として、ここにしたためてみようかなと思います。

誰かにとっては不快な文章で、人によってはすごく上から目線な文章に見えるかもしれないし、「何を当たり前なこと言ってんだか」って感じな人もいるかもしれないし、「それはお前が適当に生きてるから言えることだ」と思われる部分もあるかもしれないけれど、あくまで今の私の持論(自分に言い聞かせている部分もある)なので許してください。

 

最近思っていること一覧↓

 

それなりに自分本位に生きること

まず言いたいのはこれです。

「皆もうちょっと自分本位に生きようぜ。」

 

幸いなことに私の人生はものすごく人に恵まれていて、私と関わってくれる99%の人たちはものすごく優しい人たちです。相手のことを慮って、尽くしている方ばかりです。そしてものすごく謙虚な方が多い。「優しいね」というと、まあ大体「そんなことないよ」と返ってきます。そんな優しい方々を見ていて思うこと(言いたいこと?)が二つあります。

一つ目は「当たり前に人を想えることはそう簡単じゃない」ということ、二つ目は「自己犠牲を伴う優しさは辞めてほしい」ということです。

あなた方が当たり前だと思っているその言動は、当たり前じゃないです。当たり前のように人を傷つけないような言い方を考えて、当たり前のように隣人を慰める行為は、当たり前じゃないです。そんなのが当たり前なら、もっと良い社会になってるはず。だからその「当たり前」で自分を締め付けないでほしい。優しいことはあなたのアイデンティティの一つです。そして優しくできなかったこと、相手を傷つけてしまったことに不必要に傷つかないでほしい。誰にだって、人を傷つけた経験はあると思うし、自分が知らない間に誰かを傷つけていることなんて無限にあると思うんです。だから、お互い様です。後悔は反省するために必要です。でも、不必要に自分を責める必要は全くないと思います。お互い様ということで相手のことも、何より自分のことも許せる社会であってほしい。

でもその一方で本当に許せないことは一生許さなくていいと思います。優しい方の中には、相手を許せないことに罪悪感を抱いて苦しんでいる方もいます。でも別に全てを許す必要もないと思うのです。許せないようなことをされた事実は、相手を許したとしても消えない。だから、その事実を消化するためにも許す必要はないです。そうやって許したり、許さなかったり、許されたり、許されなかったりしながら生きていく中で、自分だけを苦しめるような考え方をしないでほしい。

十分、あなたは立派な人だと私は思うのです。その優しさは本当に素晴らしいものだから、だからこそもっと自分の好きなように、自分のやりたいように、自分本位に生きてください。

 

それと、「私/俺が我慢すれば平和に解決するから」というのは側から見ている人間としては辞めてほしいです。あなたが我慢している時点でそれはもう平和的ではない。あなたが苦しんで我慢している姿を私は見たくないです。もっと自分が幸せになれる道を選んでほしい。平和に解決しなかった世界線でも、物事は思ったよりも回ることがほとんどな気がします(特に学生のうちは尚更)。確かに人生において我慢しなければならない場面はいろいろ出てくると思うけれど、毎回毎回その役回りをあなたが背負う必要はないのでは?1対多でも1対1でも、誰かに苦しさを少し持ってもらうことは大事だと思うし、もしかしたら誰も苦しまない道を模索できるかもしれない。逆に一度思いっきり衝突して喧嘩することで解決の糸口が見えるかもしれない。それを許してくれない、あなただけが永遠と不利益を被るような環境からは逃げた方がいいと思います。NOならNOと、HELPならHELPとなるべく多くの人にはっきり言って逃げてください。

まあ、そううまくいかないことが多いとは思うけれど、全部飲み込んで生きるのと逃げてもいいと思って生きるのではプレッシャーが違うと思うから。嫌なことからは割とすぐ逃げて、自分勝手に生きている今の私はそう思っています。

「好き」なものは好き

好きなものは好き。それ以上もそれ以下もない。

そう思うことが増えました。

 

例えば、私は坂本真綾さんが大好きです。でも、彼女の楽曲を全曲知っているわけでも、彼女の出演作品を全部見ているわけでも、彼女のラジオを毎回欠かさず聞いているわけでもないし、彼女のライブに行くのは来月が生まれて初めて(楽しみ!)です。それでも私は真綾さんが大好きだし、その感情を誰かに否定される筋合いはありません。「その程度で好きを語るな」と言われる筋合いもありません。だって好きの程度も、好きにどれだけのリソースを充てるかも、人それぞれでしょう?

好きの理由を明確に言える人もいるかもしれないし、第6感のような何かでビビビッと好きになる人もいるかもしれない。そんな中で一つの指標であなたの好きを否定される筋合いも、誰かの好きを否定する筋合いもない。

だから、好きなものは胸を張って好きだと言えるようになりたいです。「好きだけど、この程度しか知らない」じゃなくて「このくらい私は好き」でいいと思うのです。知りたいなら知ればいい。このくらいで十分なら、そのくらいのままでいい。「誰かに自分の好きを認めてもらうこと」に固執することは、好きという感情を殺していく行為のような気がします。

広く浅く好きな人もいれば、狭く深く好きな人もいる。狭く浅い人も、広く深い人もいるでしょう。いろんな人がいる中で、自分なりの「好き」との向き合い方をしていくのがいいと思うのです。あなたの好きはあなただけが理解していればそれでいい。

 

誰かの好きを否定したり、自分の好きを殺したりしてきたけれど、今私はそう思います。

幸せの種類は思ったよりいっぱいあること

「いい大学に行って、いい就職先に行く。

都会に住んで、バリバリ働いて。

いっぱいお金を稼ぐ。

もし相手がいれば家庭を築く。」

私の中で幸せの定義はずーっとこれが全てだと思っていました。いや、幸せの種類がいっぱいあることは知っていたけど感覚的に理解できなくて、これが私にとっての幸せであると思い込ませていました。

でも世間は意外と広くて、選択肢はいっぱいあるんだなあと最近やっと理解できるようになりました。

 

例えば最近、私は人酔いすることが判明しました。人が多いところが嫌いなわけでもないし、都会の騒々しい感じは大好きです。でも、どうしても長時間人が多いところにいると頭痛がひどくなることが多いです。その状態で、果たして上の「」内の生活が自分の幸せと言えるか。…実際に生活したことがないので確実には言えませんが、かなり微妙だと思います。

 

つまり何が言いたいかというと、自分が思い描いている「幸せ」って数ある中のちっぽけな一つでしかなくて、最善の選択肢がどこに転がってるのかわからないっていうことです。

 

もしかしたら、このままこの場所に住み続けるのがいいのかも知れない、やっぱり都会にでてバリバリ働くのがいいのかも、2拠点生活もありですよね、転勤族になるのが性に合ってるかも、海外で暮らすのもありかもしれない…。大手企業に就職するでも良し、中小でもりもり働くのもありかも、起業なんかしちゃったり!?専業主婦になってるかもしれないし、専業主夫と結婚するかもしれない…。もう一度大学に入学するのもありかもね。

 

長いようで短い人生の中で、全部全部試すことは無理だと思います。ただ選択肢をこれしかないと決めつけるのではなく、どんな選択肢もきちんと「選択肢」として持っておくこと、これってとても大事だと思うのです。一度「やっぱ無し」と思ったことでも、年齢や経験によって変わることもあるかもしれない。切り捨てては選んで、また迷ったら拾って捨てて選んで…。そうやって自分の最善を見つけていきたいです。

他人の価値観を受け入れることが全てじゃない

なんかどうしても受け入れられない考え方って意外といっぱいあるんですよね。

いろんな人と関わって、いろんな人の考え方に触れるたびに、「う〜ん」となりながら生きています。例えば「大好きなAさんのことでも、これは理解できるけど、これは理解できない。」みたいなことがたびたび生じます。

いつかの私はそういう状態になったとき「好きな人のことなら全て理解してあげたいし、理解するのが当然だ」と思っている節がありました。でも、別にそういうわけでもないんですよね。

 

びっくりするような考え方や価値観に遭遇したとき、もちろん受け入れる・取り込むという選択肢はあると思います。未知との遭遇は楽しいものですし、相手の考え方に染まるのも(危険ではありますが)経験としてありでしょう。理解できないものを一度噛み砕いて理解しようとすることはとっても大事なことだと思いますし。

でも、それでも疑問符が残るようなものがあるときや、自分の価値観をひん曲げてまでして受け入れなければいけないようなことが発生しそうなとき、それをいい塩梅にスルーすることが大事だと思うようになりました。

スルーするということは決して無視をするということではなく、「私は私、俺は俺、あなたはあなた」と受け流せることだと考えています。拒絶したり否定するのも、また何か違う気がするのです。

「あんたのこと理解できない!」じゃなくて、「ふーん、おもしれぇやつもいるんだなあ」くらいに受け流せるような人になりたいです。

またその考え方に至った経緯や理由を聞ける人になりたいです。もしかしたら、その考え方をさらに分解して、相互理解を深めることができるかもしれない。

理解できるところは理解し合って、理解できないところは受け流して静観する、そういう対応をしていきたいものです。難しいんだけどね!